2024年3月26日火曜日

ハンドメイド水着(メンズ)・酸欠神秘・7円

 3月はせっせと販売用の水着を作っていた。その果以あって、ぼちぼち数も上がってきたので、いよいよ発売のときは近そうだ。販売サイトは、検討した結果、たぶんYahoo!フリマにすると思う。見た中ではそこがいちばん、男性用水着の販売が活況そうだったから。
 でもたぶん簡単には売れないだろうと思う。「水着 メンズ」で検索を掛けると、speedoであったり、arenaであったり、mizunoであったり、水着ブランドの水着ばかりが出てきて、結局そうなんだよ、世の中の人たちは名のあるメーカーのものを偏重するんだよ、minneだってハンドメイドと言いつつ、結局セミプロみたいな感じだしさ、とクサクサしたのだった。しかしひとしきりクサクサしたあと、と言うか考えてみたらそもそも、ブランド偏重もなにも、「ハンドメイド水着」というジャンルが、この世にほぼ存在しないのだった、と思い至った。
 「ハンドメイド下着」というジャンルは、いちおうある。でもそのほとんどが女性用だ。僕がたどり着けていないだけかもしれないが、男性用ハンドメイド下着の販売ページというものは目にしたことがない。下着でさえそんな状況なのに、あろうことか水着である。狙いどころがあまりにもニッチ過ぎるのではないか、と我ながら思う。
 でも僕は実際にそれを着用して泳いでいるが、自分の理想を形にしただけあって、本当にいいのだ。販売ページであまり熱情を持って説明文を書くと引かれるので書かないつもりだけど、本当は声を大にして言いたい。これはすばらしいものであると。販売ページに書き込めない思いの丈は、たぶん「nw」にぶつけることになると思う。

 某女性シンガーソングライターと某元競泳選手が離婚して、明確な声明はなかったものの、どうもその元競泳選手というのが、とある新興宗教に傾倒したらしいという下世話な記事を目にし、その関連で紹介されていた、その初めて目にしたとある新興宗教の教義の香ばしさに、頭がくらくらした。
 その某元競泳選手は、先輩である超有名な元競泳選手の影響で入信したとのことで、それを聞いて思ったのは、やっぱり水泳選手というのは、酸素が足りない状態で死に物狂いで泳ぐので、臨死体験や神秘体験というものが身近にあるのかもしれない、ということだ。折しもパリオリンピックの競泳代表の選考会が連日NHKで放送されていて、少し観たりもしたのだが、1500m自由形なんかを観てると、これはもう競技というより修行の一種ではないかと感じた。なにより泳いでいる間、景色も変わらず暇で仕方ないだろう。酸欠で、体をオートメーションに動かしながら、頭の中では一体なにを考えているのか。それはやっぱりちょっと、容易に神秘的な方向に行っちゃうよな、と思った。

 大谷翔平が話題を振りまきまくっている。結婚、韓国、賭博。すごいじゃないか。うすうす感じていたけれど、どうやら大谷翔平というのは、やっぱりこの世界の主人公らしい。われわれユーザーを飽きさせないため、ジェットコースターのように息つく暇を与えない。
 約7億円が勝手に使われていたということで、それは本当か、本当に勝手になのか、というのが今回の件の焦点になるようだが、7億円というと途方もない額のように聞こえるけれど、大谷のドジャースとの契約金は約1000億なわけで、それは約分すれば、1000円持っている人にとっての7円という感覚の話になるわけで、きちんと理由を説明して7円を持っていかれても、あるいは勝手に7円を持っていかれても、大谷にとってはマジでどっちでもいいことだったんだろうと思う。そんなことより野球がしたい! 野球野球野球!
 球を投げて球を打って1000億円もらい、ぜんぜん豪遊せずにひたすら早寝早起きして野球だけする人がすぐ横にいたら、精神のバランスがおかしくなって、賭博に手を出してしまうのも、ちょっと仕方がないという気もする。
 そして大谷の話題のときには必ず言うことにしているが、僕が大谷翔平に勝っているのは、ちんこの大きさくらいのものだと改めて思った。新婚にこんなこと言って申し訳ないけれど。

2024年3月15日金曜日

ロケット・で・徴兵

 和歌山県から打ち上げられた民間ロケットが、発射後すぐに爆発していた。
 ロケットを作ったベンチャー企業の社長が、そのあとに開かれた記者会見において、頑なに失敗という言葉を使用しなかったのが、なんだかおもしろかった。たぶん今後のスポンサー誘致のことなどを勘案し、悪いイメージをつけまいとしての作戦だったのだろうが、その会見内容を伝えるニュースの前に映し出される、ロケットが爆発する映像というのが、本当に見事なまでにきれいな、清々しいほどの爆発具合なので、そのあまりのギャップが笑いを誘うのだった。見た目からして絶対にとんでもなく阿呆な子を、「やればできる子なんです」と言っているような、なんかそういうギャグめいた風景に見えたのだった。
 同じくロケット事業を行なうイーロン・マスクもコメントを発表したとのことで、どんなことを言ったかと思ったら、「Rockets are hard」だそうで、ここまで含めてやけにコントっぽい出来事だな、と感じた。マスクのコメントはどこかバカボンのパパっぽさがあり、赤塚不二夫の世界観に近い気がする。

 ちょっと前、まあよくある話なのだけど、なんかしらの事由で疲れている奥さん(投稿者)が、これから晩ごはんを作ろうというとき、献立をどうしたものかと夫に問いかけたら、「うどんでいいよ」という答えが返ってきて、あり得なかったので説諭した、というエピソードが投稿されて、やけに話題になっていたのだった。
 これは本当によくある。夏場に、そうめんでいいよ、と言ってしまったパターンなどのバリエーションもある。そして定期的に盛り上がる。女はこのパターンが本当に好きである。男の、家の仕事の大変さへの理解のなさ。大好物である。
 女のそういう部分の怒りを刺激していいことなど本当にひとつもないが、それでもこちらも性分なので、黙っていることができない。誰も読んでいないブログだし、述べる。
 晩ごはんをうどんで済ますのは、普通の晩ごはんを作るより、絶対に楽だろ。
 いまどき、完全に料理をしない男は少数派だ。だからこっちだって実体験をもとに判るのだ。うどんは楽だ。ごはんと、汁と、おかずが、ひとつで済むのだから。
 女は、「で」が悪い、と言う。「うどんがいい」「そうめんがいい」ならいいが、「うどんでいい」「そうめんでいい」は、手抜きだけど許してやるよ的な考えが漏れ出ていると考えるらしい。読解力が低い。あるいは被害者意識が強すぎる。話にならない。
 普通の献立を作り上げる労力が10だとしたら、うどんは5くらいで済む。こちらはその簡便さを実現するための方策として、「うどんってことでいいんじゃない(ナイスアイディアだろ)?」と言っているわけで、別に手抜きを糾弾する意図はないのだ。それなのに女はすぐに言葉尻を取って男を責める。責められた男は、本当は反省などしていない。なぜなら反省する部分などないからだ。悪はいない。いるとすればそれは女の心の中の仮想敵だ。責めることでお前の溜飲が下がるならば結構、と思いながら男は粛々とそれを受け止める。
 ま、そんなところが女のかわいさなんだけどさ。

 ミャンマーで徴兵制が開始されるというニュースを目にし、内容を読んだところ、男性は18歳~35歳が対象とのことで、衝撃を受けた。
 戦争教育の賜物か、僕は徴兵制というものにものすごい拒否感を持っていて、自分の人生で絶対にそんなことにはなりませんように、ということをずっと強く願い続けてきた。小中学校での体力テストも、あまりいい記録を出すと、いざというときの徴兵リストの上位のほうに名前が来てしまうと考え、力をセーブしていたほどである(俺が本気を出したらそのときはもう、ねえ)。
 そのため、このほど運用が開始された徴兵制の対象年齢が35歳までだったというのは、国が違うとは言え、かなり感慨深いものがあった。
 これはどうも、今生、僕は徴兵を免れたのではないだろうか。
 これから有事になったとて、もはや40歳の僕は、国家から戦力としてカウントされないということではないのか。ましてや中学校の体力テストの記録を見るに、とても機敏に動けそうもない。さらには内申点から察するに、規律に対する従順さも壊滅的だ。しかもamazonの定期購入リストにはサプリメントがずらずらと並んでいる。サプリメントを日々せっせと飲んで、やっと立てているようなものではないか。駄目だ駄目だ、こんな奴は。たとえ志願してきても絶対に入れてやらん。こっちから願い下げだ。
 そう考えるととても嬉しい。この世からありとあらゆる争いごとがなくなりますように。

2024年3月13日水曜日

矜持・むべ・見識

 子どもたちがYouTubeの、ほとんど静止画のような、キャラクターの絵が小刻みに動くだけの簡単なアニメに、やたら早口のセリフを乗せた、コント仕立ての映像をとても愉しんで観ていて、不憫だ。不憫とはどういうことかと言えば、子どもたちはそれが本当におもしろいと思っていて、父である僕にも観るよう薦めてくるのである。だが僕は断るのである。どう言って断るのかと言えば、こうである。
「俺はごっつええ感じを観て育った世代だからこんなものはとてもじゃないが観られない」
 つまり、こんなものをおもしろいと思ってしまう、ごっつええ感じをやっていない時代のお前らが不憫だ、ということである。
 言いながら、我ながらひどいな、と思う気持ちはもちろんある。僕はラジオ番組の常連リスナーによる内輪ウケの感じとかがものすごく嫌いなのだけど、これではあまり人のことは言えない。しかもハガキ職人でさえなく、観ていただけなのだから、なおさらタチが悪い。
 そういう自戒の念はありつつ、それでもなお、あの類のアニメを観たくないと思う理由は、厳然としてそこに立脚していると思う。これは矜持だ。俺はごっつええ感じを通して、おもしろさというものを理解していった人間だという矜持。矜持と書いて老害と読む。

 ようやくきちんと暖かくなってきて、春を実感できるようになった。
 グダグダだった去年に対し、今年の灯油のフィニッシュはかなりうまいこといきそうである。なにしろコタツの存在が大きい。去年はコタツを出さなかったので、ストーブを点けるか点けないかという大味の寒さ対策しかできなかった。今年はコタツのおかげでゆるやかな調整をすることができ、結果として灯油の購入費も大いに削減できた。去年の記録というものはないのだけど、今年ははっきりしていて、12000円である。灯油缶、約6回分。これはたぶん、去年よりもだいぶ少ないはずである。
 暖かくなってくるとなにがいいって、あまり服を着込まなくていいというのが嬉しい。常態としてあまり服を着込まないでいられると、そこからの脱ぎやすさ、裸になりやすさというのもよくなってくるわけで、いろんな意味で快適だ。冬の間じっと我慢していた部分が、スプリング状に飛び出るイメージ。春になってちんことか出しちゃう事案が多く発生するのも、むべなるかな、と思う。俺のむべなるかなが涎を垂らして悦ぶ春です。

 手製のスイムウエアを本当に販売してみることにして、鋭意製作中である。
 以前「パピロウせっ記」に、僕の作るスイムウエアは股間の部分にたっぷりのゆとりがあって、それは製作者こだわりの特長であると同時に、あまりそのことを主張し過ぎると公共の場での着用に支障が出てくるし、かと言ってその作りに関してまったく触れずに販売するとそれはそれで問題がありそうで、いったいどういう言い回しにすればいいか悩んでいる、ということを書いた。minneで痛感したのだけど、どうも僕は人にきちんとなにかを説明しようとすると言葉数が多くなりすぎるきらいがあり、このままではスイムウエア販売(ちなみにminneでは売らない)でも同じ失敗を繰り返してしまいそうだと思った。
 そこでファルマンに相談したところ、「「圧迫感のないデザインです」くらいでいいんじゃない」という答えが返ってきて、「それだ」となった。つかず、離れず。それくらいでいいのだ。ジョニファーの着用画像に、それくらいの文言でいいのだ。それで伝わるのだ。
 ああ助かった。股間部の盛り上がりに関する表現について見識のある妻と結婚してよかった。

2024年2月29日木曜日

褒美・ステルス・石ころ

 ポルガが学年末試験を終える。
 試験のたびに、「勉強しなさい」「嫌だ」「成績が悪かったら塾に行かすよ」「じゃあ逆にいい点数だったらご褒美ね」というやりとりがあり、結果としてポルガはこれまで順調に塾をすり抜け、褒美をゲットし、そして真摯に勉強をしないのにわりといい点数を取って帰ってくる娘に、ファルマンは自分の悲惨な思い出と照らし合わせて膝から崩れ落ちるという、そこまでが一連の流れとなっている。
 褒美は、これまではゲームのソフトや漫画だったのが、今回のポルガのリクエストは、スマホの1日の使用制限時間の拡大と、さらにはTikTokアプリのダウンロードの許可で、なんかあれだな、フェーズが変わったんだな、ということをしみじみと思った。そのことに一抹の寂しさを感じつつも、ご褒美に一切費用が掛からなくて助かるなあ、とも思った。
 TikTokは、どんなものかファルマンが試しにダウンロードして覗いてみたところ、1分くらいで「これはあかん」となり、かなりの高得点でなければ実現しない設定とした。僕自身はTikTokはまだ見たことがないけれど、ひとつだけ分かることは、もしも今回かなりの高得点を取ってTikTokを無事にゲットしたら、それ以降はもう高得点を取ることは絶対になくなるに違いない、ということだ。そのくらいの、バカまっしぐら装置だと認識している。YouTubeもその装置の機能としては大概だが、TikTokはそれをさらに加速させたものであろうと。
 それで試験の結果はどうだったかと言うと、どうも、塾に行かせなければならないほど悪くもなかったが、ろくに勉強しなくてもぜんぜん高得点という、これまでの流れには、ちょっと翳りが見え始めたのかな、という感じで、少々の使用時間の拡大はやぶさかではないけれど、TikTokは不許可という、そのあたりに落ち着きそうな案配だ。いい落しどころだな。

 昔とてもおいしく食べていたお菓子が、そこまでおいしいと思えなくなった、という現象があって、舌が肥えたというよりも、年を取ったことで、強い味のものを受け付けられなくなったんだなあ、などと感じたりしていたのだけど、先日ふと思ったこととして、量や大きさがダウンするステルス値上げという言葉があるけれど、それら物理的な要素のほかに、使用している材料の品質がステルスでダウンしている可能性だって大いに考えられるわけで、かつてはバターを使っていたのがマーガリンになったりとかして、本当においしくなくなっている場合も往々にしてあるのではないだろうか。そのように考えると自分の生きる力的には安心感が得られるのだけど、この世やこの社会という視点で考えると、ちょっと暗澹たる気持ちになる。安寧は得難い。

 ゆめタウン出雲で今週の日曜日、ドラえもんショーが行なわれるという情報が入ってきて、そのショーのタイトルが「石ころぼうしでひとりぼっち?」だったので、見出しをパッと見た瞬間に、ドラえもんの石ころ帽子をモチーフにした体験イベントが開催されるものと勘違いをしてしまい、夢を見てしまった。
 よくある「ドラえもんの道具でひとつ手に入るとしたら?」の問いに、「どこでもドア」や「もしもボックス」などと答えるのは浅はかだ。当たり前すぎて話が盛り上がらない。僕のその答えは断然「石ころ帽子」だ。石ころ帽子のなにがいいかって、もう20年にわたってこのブログで何度も言っているけれど、ただ相手に自分の姿が見えなくなるわけではなく、見えているけど石ころのように気にならなくなる、という点だ。ここが絶妙なのだ。
 だから石ころ帽子のイベントと聞いて(勘違いして)、ローションフェスであるとか、ヌーディストビーチであるとか、それこそ乱交パーティーとか、なんかそういう類のものかと思ってしまった。参加者がそれぞれ石ころ帽子を被り、その場にいる自分以外の人を、同時に気にならなくなって(というていで)、思いのままに振る舞うという、なんかそういう淫猥な匂いのするイベントかと。そんなものを開催するなんて、ゆめタウン猛ってるな、ランサムウエアに感染していろいろ大変そうなのに強気だな、などと思った。
 もちろんそれは大いなる誤解で、実際は冒頭に書いたと通りの、たぶん着ぐるみが出てくるショーで、のび太がピンチに陥るけど結局は一件落着するんだろう(身も蓋もない解釈)。着ぐるみのショーは、もうわが家の子どもたちは対象年齢ではなくなってしまった。たぶん観に行くことはない。もしも観に行ったとしたら、観客席でやけに感慨深い顔でショーを眺めている男性、それが僕です。気にしないでください。

 

2024年2月23日金曜日

さなえ・大谷棒・成熟

 怖い話をする。
 昨晩未明、僕は寝言で突然こう言ったという。
「さなえちゃん、さむかったろう、まだまだ……」
 ファルマンによると、僕はそれを好々爺のように言ったのだという。わりと大きな、ともすれば普段の僕の話し声よりも大きな声だったという。そしてそのあとは黙ったという。ファルマンは慌てて暗闇の中でスマホのメモを起動し、この文面を記したそうだ。
 ちなみに僕の身の周りに「さなえ」という女性はいない。
 僕はわりと、現実とは乖離した、現実で知っている人がひとりも出てこない、知らない人しか出てこない夢を見たりするけれど、それでも思い出す限り、僕は常に僕だ。さなえちゃんの寒さに思いを寄せる老爺になったりすることはない。怖い。
 もしかすると、寝ている間の、使われていない体や脳の部分を、この世界のこの時代とはまるで違う存在に、勝手にレンタルされているのかもしれない。あるいは何十年後かに、孫や曾孫で「さなえ」が誕生したら、これもまた趣の異なる怖さだと思う。

 大谷翔平が初めてのドジャースのキャンプということで、注目度が高く、ニュースでよくやっている。今シーズンは打者に専念するわけだが、先日は実戦形式で、バッターボックスに入っていた。昨シーズンのホームラン王ということもあり、報道陣のほかに見物客もたくさん詰めかけ、大谷の姿を見つめていた。
 その第1打席がすごかった。
 大谷、いちどもバットを振らなかったのである。球筋などを確認するため、はじめからそのつもりだったのだろう。
 しかし大勢のドジャースファンが見守っていたのである。10年7億ドル、日本円にして1000億円を超えるという契約をした大谷がどれほどのものか、見定めてやろうと取り囲んでいたのである。そんな中で、バットを振りもしない、という精神力。もはやサイコパスではないかと思った。
 僕なら、「第1打席は見るだけにしよう」と思っていても、大勢のファンが「どうなの、こいつ実際どうなの、やれんの」という感じで見に来ていたら、「いいとこ見せなきゃヤバいかな、顰蹙を買うかな」と思って、すごく半端なスイングをしてしまうと思う。そしてフォームを崩し、1シーズンを棒に振ると思う。その点、大谷はバットを振らない。バットを振らないから、シーズンを棒に振らない。すごい。サイコパスだ。
 大谷のエピソードを目の当たりにするたびに、僕が大谷に勝っているのはちんこの大きさくらいのものだな、と思う。ちんこの大きさ以外は、すべてで負けている気がする。

 ドラクエ11をやっているのだが、十代の頃のプレイと大きく変わったなと思うこととして、最強の装備を揃え、最強の仲間を集め、最強の強さになろう、という気持ちはぜんぜんないのだった。十代の頃は、レベルを99にして、メタルキングの装備一式を身に着け、5や6だったら仲間にできるすべてのモンスターを仲間に、みたいな執念があった。
 今は、あるもの、手の届くもので、やらなければならないことがこなせればそれでいい、というスタンスである。世界のどこかには、もっといい装備品があるかもしれない。たぶんあるだろう。でも別にそれを手に入れなくてもボスは倒せるので、なくてもいい。
 この考え方の変化は、もちろん僕が大人になったというのもあるけれど、ゲーム自体もそういう傾向があって、スキルポイントの割り振りというのがあり、そのキャラクターの装備できる、剣だったり、槍だったり、杖だったりの、どのスキルを伸ばしていくか、というのが選べるようになっている。レベルを上げたら、あらかじめ定められた数値でそのキャラクターの能力が上昇していくという一本道ではなくて、育成の要素があるのだ。だから、槍を伸ばすことにしてそっちにポイントを全振りしたら、剣はそこまで得意ではないキャラクターになる。昔だったらなんとなくそれは据わりが悪く思ったかもしれない。欠損だと感じたかもしれない。今はそんなことない。これはとてもいいことだと思う。なんでもかんでも手に入るわけではない。そういうものだ。それでいいのだ。

2024年2月15日木曜日

ジョグ・休肝・ドラクエ

 「おこめとおふろ」にも書いたが、いつものプールが閉鎖していて、地方民なのでそのプールが閉鎖するとそれはもうほぼプール難民ということになり、哀しみに喘いでいる。しかしなにぶん性根が前向きなので、打開策としてジョギングをぽつぽつとやっている。偉い。本当に偉いと思う。俺だけの国があれば、俺は俺に国民栄誉賞をあげたい。
 ジョギングは、プールほどはおもしろくないけれど、非日常感もそれなりに得られ、多少の気分転換になる気がする。そのついでに脂肪が燃焼されるのなら万々歳だ。
 夜に、車が来ないからという理由で近所の土手を走ったりすると、遠くに街の灯はあるものの、道や足元は本当に真っ暗で、平衡感覚が失われるほどだ。土手なので、片側は川べり、片側は道路となっており、転がろうものなら危険だし、もしも倒れたら朝まで発見されないな、などと思いながら走っている。
 空を見上げれば、冬の星がすごい。なにがすごいって、数がすごい。
 そんな星空を眺めて思ったのだが、にわかに変なことを言うようだけど、星の配置って、なんとなく線で繋いで、形を想像で補ったりすると、なんかしらの生き物や物品のように見えてきて、それらが星空を舞台に、呼応するように巡っているのだと思うと、ストーリー性さえ帯びてくるような気がする。あまりに荒唐無稽というか、無茶があるので、こんなことを考えるのなんて、過去現在未来併せても僕くらいのものだと思うけども。

 いつまで続くか知らんが、酒を飲むのは次の日が休みの晩だけにしようじゃないか、と思い立ち、実行している。いつからか。昨日からだ。昨日から始めた禁酒を、さも最近の暮しの報告です、みたいな面をして述べてみた次第である。
 酒を飲むことは、肝臓に悪いのはもちろん、なんかしら食べることになるので太るし、寝る前の飲酒はトイレが近くなるし、もちろん酒代も掛かる。冷静に考えるとメリットはデメリットに較べてとても少ないのだ。定期的にこの事実を噛み締めて、禁酒を誓う。それだのにいつの間にかこの誓いは破られるのだから不思議だ。頭おかしいんじゃないか。
 寝る前2時間くらいは食べないほうがいいとか、22時以降は食べないほうがいいとか、そういうことが言われるけれど、晩ごはんを食べたあと、寝るまでの数時間、なにも摂取せずに寝るのって、ちょっと寂しすぎると思う。これまではその思いから晩酌をしていたわけだが、禁酒ということになると、酒の代わりになにか別のものを用意しなければならず、これがけっこう難しい。コーヒーなどのカフェインを摂るわけにはいかないし、ホットミルクというのも大げさだ。じゃあぐい呑みに日本酒を一杯だけ、というのがいちばん簡単な話なのだが、しかし酒がぐい呑み一杯で終わるはずもなく、たぶんそこらへんから禁酒の誓いはいつも綻ぶのだ。
 昨日はどうしたかと言えば、沸かしたばかりの熱い麦茶を飲み、手作りのクッキーを2枚ほど食んだ。健康的だな、とも思うと同時に、それで人生の歓びは得られているのか、という自問も浮かんだ。時間の問題だな。

 ドラクエ11を買う。ポルガがお年玉で買う。それでポルガと同時進行で、僕も冒険の書を作り、プレイしている。実はポルガに買わせたのも、だいぶ僕が焚きつけたところがある。せこい父親だな。もっともドラクエというものは、人生の素養のひとつとして、ひとつくらい摘んでおいても損はないと思う。古い考えかもしれない。
 ドラクエは、たしかDSの9はしたのだったと思う。そしてオンラインの10には触れず、2作ぶりにこうしてまた巡り合った。やり始めてすぐは、ドラクエはもとよりRPGというものが久しぶりだったためか、いまいち気持ちが盛り上がらず、危機感を抱いたが、しばらくやっているうちに、乾燥していた土地に水が染み渡るように、きちんと愉しくなった。
 画面は、はじめにポルガが3Dでやるのを眺めていたら酔ったので、自分は2Dで進めていたのだが、せっかくの美麗なグラフィックを拒否し、ファイナルファンタジー6やドラクエ6あたりの感じのドット絵でプレイしているのが、なんだかすごく偏屈な行為であるように感じられ、途中から3Dに変更した。慣れたらぜんぜん大丈夫だった。これは経験則だ。「初見で拒否感があっても、だんだん慣れて大丈夫になる」のだ。これまでの半生で、さまざまな変遷に対峙し、そんなことは何度も何度も繰り返し学習しているはずなのに、なおも初見での拒否感に付き従ってしまう。年を取ると余計にその傾向が加速している気さえする。不思議だ。「初見で拒否感があっても、だんだん慣れて大丈夫になるんじゃよ……」と若者に諭せるようになれればいいのに、実態はその逆である。人は哀しいな。
 プレイしていると、子どもの頃のドラクエの愉しかった思い出がよみがえってきて、なるほど僕は過ぎ去りし時を求めて、ドラクエ11をしているのかもしれないと思う。

2024年2月8日木曜日

いよいよ・保守・ヘアケア

 年末の買い出しでちょっと浮かれた気持ちになって、20代半ば以来の白ワインを買って飲んだら、意外と美味しく飲めてしまって、そうだよな、白ワインはわりと美味しいんだよな、とは言え赤はさすがに無理だな、あのエグみはどうしたって無理だな、などと思っていたのだが、白ワインを2本ほど飲んだあと、次のものを買うためにお店のワインコーナーに行ったところ、気づけば白ワインと一緒に赤ワインもかごの中に入っていた(無意識状態で酒を買ったなどと言うと不穏な感じがある)。ただし不信感があったので、白ワインに較べてとても小さボトルである。もしもダメだったらハンバーグを焼くときとかに使えばいい、と思った。しかし飲んでみたところ、これがぜんぜんいけるのだ。あっさりした白ワインとはまた別の、こっくりとした味わいがあって、美味しい。ワインを飲もうと思ったのは、ひたすらビールと日本酒と缶チューハイしか飲まない、自分のアルコールのバリエーションの少なさに飽きが来ていたという理由もあり、白と赤、立て続けにふたつも選択肢が増えたのは喜ばしかった。
 それにしても、かつてエグくて受け付けなかったものが、いまは受け入れられるようになった、ということで確信したのだけど、年を取るとさまざまな意味で、あらゆる感覚が鈍感になるのだと思う。「これの良さが分からないなんて、まだまだだな」なんてことを年配者が言ったりするけれど、そんなはずないのだ。むしろ「それが受け入れられるだなんて、いよいよですね」だと思う。そう思いながら、赤ワインを飲んでいる。

 子どもが、主にピイガが、「ちびまる子ちゃん」にハマる。漫画を読み、アニメを観ている。ピイガは最近になって児童書から漫画へとステップアップし、「ちびまる子ちゃん」の前は「ドラえもん」をがっつり読んでいた。それはまっとうな流れのような気もするが、30年前の、自分やファルマンもまったく同じ筋道であったことを思うと、驚嘆すべき事実のような気もする。なんで子どもが居間のこたつで寝そべって読む漫画が、30年前から変わっていないんだ、と。それともウチが特殊なのだろうか。たしかにポルガの岡山時代の友達は、好きな漫画が、「鬼滅の刃」から「呪術廻戦」になり、「東京リベンジャーズ」、「スパイファミリー」と来て、いまは「葬送のフリーレン」だそうなので、その可能性も十分ある。もしかしたらわが家は、漫画アーミッシュなのかもしれない。

 先日髪を切ったわけだが、仕上がったさまを眺めてファルマンが、「あなたって眉毛を整えないよね、なんで?」と訊ねてくる。僕はわりと眉毛が太く、濃い。わりと整えがいのある眉毛だと思う。でも人生でいちどもいじったことがない。なぜかという問いの答えは、「眉毛を整えるのはヤンキーか野球部かビジュアル系だから」ということになる。ひとつ目とふたつ目は、ベン図で言うとだいぶ重なっていて、世代は違うけれど中田翔なんかは、まさにその例であると思う。そして彼らは必ず金色の鎖みたいなネックレスをする。眉毛を整える男というのは、そういう輩だという、時代によるすり込みがあるので、決して自分がする行為ではないと捉えているのだった。そう説明したところ、「でも陰毛は整えるよね」と言われたので、それはまたぜんぜん別の話だ、と思った。陰毛の生やし方、残し方については、一家言ある。こと陰毛に関しては、ビジュアル系に属するとも言える。